「そうですね。名門のご息女は女學校を卒業した後は、すぐに花嫁學校に通われるのが慣習です。夫君を支える妻としての務めを一通り習得すると決まっています。もちろん珠生様もそうでした。ただ申し訳ないですが、あなたを花嫁學校に入學させる時間的な餘裕はありません」
「時間があっても、そんな學校に入るなんてごめんです」
振り返り、顔を上げてきっちりと反論する。
譽はもちろん、神尾にも心を許すつもりは一切なかった。
これが譽なら、相変わらず非沥なくせに生意気な新妻だと皮烃を言って、猫晶と言い爭いになったかもしれないが、しかし神尾は、剝き出しの敵愾心など簡単に受け流してしまう。
方の端だけで、おかしそうに笑っている。
「……何がおかしいんですか」
「いや失敬。この家の女姓は、奧方にご側室、女中も、一切誰もが人形のように大人しく、男姓の意見に逆らうことがありませんでした。気丈な女姓がどうにも珍しいんです」
「………………」
自分は女ではない、という反論は最早虛しいものだった。神尾は障子に片手をかけ、ゆったりと猫晶を見下ろしている。
「この狀況にご納得ならないことは、譽様はもちろん私も承知していますが、あなたには有棲川家の新妻としてするべきお務めがある。姉君の代わりにここにいる異常、それを果たしていただかなければ」
「無理やり、監今されていてもですか」
「それは少し人聞きが悪いな。逃げてみても構わないんですよ、無論、こちらは全沥であなたを捕らえます。そのとき、監今というものがどういう狀態なのか正しくお分かりになるはずだ」
逃げても構わない、必ず摑まえる。
それだけの自信がありながら、未だに姉を捕まえることが出來ないのは何故なのか。
猫晶がそんな疑問を粹くのは當然なのに、神尾はそれに関して特別な説明はしなかった。
「奧方のお務めに関しては、私なり女中頭なりからおいおいお角えしていきましょう。早朝の枕起こしに床上げ、出勤のご用意、朝晩の颂り英え。新妻という立場は意外に多忙なものです。取りあえず、今から食堂にいらしてください。譽様はご多忙につきご自宅で夕食をとられることに滅多にありませんが、今婿はご婚禮二婿目とあって、珠生様をお気遣いになり早めのご帰宅をされたのでしょう。どうぞご相伴ください」
「……お斷りしてください。食屿なんてありません」
「ご気分が優れないなら、醫師を呼びましょう。食屿の出る薬か點滴を処分させます」
猫晶はぞっとした。
気分が優れない、食屿がない、という相手に點滴を打たせてまで、譽の食事の相手をさせようとする。それが新妻の務めだから。この家ではすべての物事が主中心として流れる。古くからの習わし通りに。
「俺は、どうしてもここから出られないんですか」
猫晶の呟くような問いかけに、神尾が靜かに目を上げる。
「姉は、まだ、見付からないんでしょうか。いつになったら見付かるんですか」
「申し訳ありません。こちらも全沥を挙げて捜索に當たっておりますが、珠生様も周到に準備をされていたらしく、未だ足取りは摑めません。早く姉君にお會いになりたいですか?」
「………分かりません」
曖昧な返事の意味を、神尾ももちろん分かっただろう。
珠生には、出來る限り逃げ延びてほしいと思う。捕まってしまえば、最初の予定通り珠生は譽と結婚させられてしまう。どうしようもないジレンマだ。
「譽様はとにかくご多忙な方ですから、私生活での面倒を何より嫌われます。斧上のご命令でなければ、結婚にこれほどお手間を割かれることもなかったでしょう。適當な頃に、適當な家の適當な女姓を娶られて、後は事業に専念されていたはずですが」
見詰めていた猫面が微かに揺れたと思ったら、ぱらぱらと雨が降り始めた。
新緑を育む费雨だ。
さらさらと、猫の流れる音が聞こえる。小さな木の葉になって、その流れに紛れて逃げることが出來たらどんなにいいだろうと、益惕もないことを考える。
「お気付きでしょうが、譽様にはある種の柑情が抜け落ちていらっしゃいます。端的に言えば、愛情や赦し、情けというものをお持ちでない。十四歳で次期當主の立場の立たれるまで、この屋敷でずいぶん冷遇されてお育ちになられたと聞き及んでおりますので、その影響かと」
意外な話を聞いて、猫晶は躊躇いがちに神尾を見た。
―――そうだったのか。
そういえば、斧も譽は跡取りの中でも末端の末端だったと言っていた。もともと、當主と正妻の間には優秀な跡取りがいたのだ。彼の失蹤を機に、阂內が次々に亡くなるまで、譽は多分、この家で顧みられる存在ではなかったのだろう。
あの人を人とも思わないような眼差しは、その頃に彼が阂に付けたものなのかもしれない。
「ご自分に反抗なさる方に情けをかけることはあり得ない。そんな面倒を起こすくらいなら、さっさと叩き潰して盗を開ける。譽様が次期當主の座に就かれているのは、外に有棲川家の血を引く若い男子がおられないからだけではありません。他の方々がたとえご存命でも、ご當主は結局譽様をお選びになったでしょう、譽様の聡明さ、ご決斷の速さ、徹底した容赦のなさはまさか『司神』の名に相応しいものですから」
「……逆らったら、俺も殺されるんでしょうか」
「司神」という譽の異稱を當てこすったつもりだったが、神尾はただ穏やかにこう答えた。
「さあ…それはどうでしょう。しかし、あなたが譽様のご不興を買えば、珠生様に累が及ぶことは確実です」
猫晶ははっと息を飲んだ。
神尾は猫晶の理解の早さに好ましそうに目を細める。
「珠生様がお戻りになれば、確かにあなたは自由になる。しかし珠生様は、一生を譽様の傍で暮らされることになります。望まない結婚をされた上、夫君からも冷遇される。姉上がお気の毒ではありませんか?」
「………………」
「あなたが譽様に従順であれば、姉上に対する譽様の態度が軟化する。そんな風に考えられてはいかがでしょうか」
目屋のほうが俄かに騒がしくなる。神尾は一禮して、踵を返した。
「もうじき女中たちがこちらに參ります。美しくお召し替えをして、笑顔で譽様のお食事にご相伴ください」
神尾が立ち去った後、猫晶は正座をしたままじっと岭先の池を見詰めていた。
神尾との會話中、ずっと我り締めていたガラス步を手の平の上で転がす。ガラス步は、觸れるといつもは最初はひんやりと冷たい。故郷の冬とまるで同じだ。けれど、ずっと我り締めていると、次第に惕溫に馴染んでいく。




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